post60:当事者として大分をみる
当事者として大分をみる
その動きを具体的に教えてくれたのは、のちのコアラの会長となる後藤国利さんだった。その当時はコアラは影もかたちもなかったが、歴史的に小藩分立政策に泣き、互いの藩をつぶしあうという、いわば他人の足を引っ張りあう風土を持っていた大分を、「いろいろあるだろうが、とにかく酸いも辛いもぐっと呑み込んで、一致団結して大分の未来を考え行動しようじゃないか」という平松知事のスタンスにたいして、理論的にも実際面でも応援しようという後藤カイチョウーの行動は、我々新参Uターン者にはとっても新鮮であった。
臼杵市は大分の中でも一風変った地域アイデンティティを主張するところで、老舗の醤油メーカーが競いあい、大分を代表する造船業があり、と、小藩多い大分の中で唯一、フローよりも大藩的ストックといえる力を感じさせる地域だ。その風土にふさわしく優秀な人材、逸材を官界、財界、文学界に数多く輩出してきた所であって、後藤カイチョウーもその同地域を名実ともに代表する経済人、政治家として広く県内で知られていた。
その彼が私に、話しがあるから出て来いという。一九八〇年の暮れだった。
「平松知事がせっかく東京に対抗して頑張っているので、我々も何か考えねばならないが、まず勉強からだろうね。今、日本銀行の大分支店長は南原さんだが、南原さんのような中立の立場の人を中心にして、また、ほんの数年であっても東京から優秀な人達が大分に赴任してこられている期間を、我々大分人は彼らから勉強させていただく機会と捉えたらどうだろうか」
彼の話しは「なるほど」と思わせるもので、東京から転勤してこられる日本銀行の支店長のみならず、その他にも転勤で大分に来られている新日鉄大分や昭和電工といった日本の一流企業の若手トップ陣、自治省からの大分県庁出向者などとの交流は、いやがおうにも大分人の視野をグローバルに広げさせ、地縁やしがらみで固まってしまっている発想から目を開かせられる思いだし、かつ、外部から来た人々にできるだけ早く大分の事情をのみ込んでもらう、すなわち大分を勉強していもらい、大分を好きになってもらうよい機会にもなる。さらに東京へ帰ったあとも大分ファンであってくれたら、という狙いは互いに好都合である。
後藤カイチョーが知事に相談したところ、「なかなかよい企画だ。ぜひともやってくれ、全面的に応援しよう。だから、その勉強会を大分県地域経済情報センターでやってくれ」とのことだった。
社団法人で第三セクター方式の情報センターは、今でこそ、コアラの事務局がおかれてあったりして、コンピュターネットワークのセンター的イメージを持つけれど、その当時はまだまだ情報センターの知名度も利用パターンも確立されていなかった。それだけに知事は、勉強会は情報センターがシンクタンク機能を持つようになるよい材料だと考えたようだ。
その第一回会合は一九八一年二月十日。私の結婚式のほんの五日前。この時が情報センターとのかかわり合いの最初だったようだ。
メンバーは地元と県外で半数づつ、議論ができる二十名程度という少数構成であったが、会の名称は大きくて「日本経済勉強会」。名前負けしそうな気持ちになりそうだったが、南原さんから‘日本経済’の動きを教科書を使って本当に勉強させられてしまったのには驚いた。宿題もあって、理工系出身、かつ、ローカルな私にはちょっと苦しい勉強会でもあった。
講義の後には最近の大分のことをいろいろとフリーディスカッションするのだが、南原さんの前向き、かつ、ねあか、かつ、人をよい方に評価して自信を持たせる話しぶりは地方コンプレックスになりがちな私たちを大いに勇気づけてくれたし、目の前で繰り広げられる南原さんと新日鉄大分の安藤工程業務部長との白熱の会話は、互いに世界を知っているもの同士でとても面白い。南原さんは様々に海外経験があるし、かつ、世界経済の中での日本の経済を注視するのがお仕事。一方、安藤さんは、世界を歩き回って鉄を売って廻っているという実践家。理論対実践という構図のおもしろさだけでなく、それを大分に結び付けての議論は圧倒されるばかり。本当に面白い。「大分を楽しくしよう」ということが理屈を越えてわかってくるような気がする。
今にして思えば、地域のために行動することは楽しいこと、素晴らしいことなんだ、と、その時にジワジワと洗脳(?)され、地域を楽しくするには自らも傍観者でなく当事者の一人であらねば楽しくない。そういったことをわからせてくれたはじまりのように思う。
与えられた場から逃げることなく一つ一つそういう考え方で取り組んでみよう、と、考え始めた頃、その年の4月に大分経済同友会で新設のテクノポリス研究委員会の副委員長に指名されてしまった。委員長は、日本経済勉強会のメンバーである佐藤弘親さんで、最年少会員ではあるが、理科系出身のキミならテクノポリスの勉強をするだろう、ということが推薦の理由だったのだろう。
右も左もわからないまま副委員長職を努めざるを得なかった私は、八一年十一月にアメリカのシリコンバレー等の調査にテクノポリス調査団の一員として参加した。スタンフォード大学やサンノゼのIBM、サンタテレサ研究所、ダラスのテキサス・インスツルメント本社等を見て廻り、情報産業で活性化する地域にすばらしさを感じたのは確かだが、なんとなく日本とのギャップ、大分との落差も強く感じてしまったのも事実だ。
大分はどうやったらこのように特定分野で先進地として認められ、私たちのように見学者が訪れるほどの地域になるのだろうか?見学者や視察者が多ければ多いほど、見学される側はステージに上がった格好になり、自分達に誇りと自信を持つようになるのだろうなぁ・・・。
翌年の八二年三月、大分経済同友会の「大分県のビジョンを求めて」と題されたシンポジウムが開催され、テクノポリス関連のパネラーに指名されたりと、大分という地域を自ら考えざるを得ない場が与えられ続け、地域おこしにニューメディアやハイテクがとても重要だ、という世の大勢に理科系出身者らしく強くうなずくようになってしまう。

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