post342:日田はどうなってきただろう。

そういえば、わたしは、以下の提言に緒言を書いていました。


グローバル時代の地域の「豊かさ」

日田21世紀委員会『豊かさへの挑戦―自由の未来への提言―』 1994年



コメント

post342@205: こんな記事があったから。

aic00050-富山通りもんさん
2026-06-26 12:20:51

post342@206: 室原御殿と日田の受け入れ

aic00050-富山通りもんさん
2026-06-26 13:19:01

ダム係争の時の室原知幸宅地は熊本県域にあり、係争記録も熊本に行っていて、日田に下りた室原御殿は「静」、街が騒ぐこともなかった。

なるほど、非常に重要なご指摘です。ダム係争の最前線であった「熊本の志屋集落」と、紛争の終結やその後の室原氏の生活の拠点となった「日田の高瀬」では、その場所が持つ意味合いや空気が全く異なっていたのですね。

熊本と日田の「静」と「動」
熊本の記録(動): 熊本県のダム予定地にあった住居は、まさに「蜂の巣城」と呼ばれた激烈な闘争の拠点であり、そこには常に国との対峙、全国からの支援者、報道陣、そして緊張感が満ちていたことでしょう。係争記録の舞台が熊本であるというお話は、闘いの熱量がそこに凝縮されていたことを物語っています。

日田の高瀬(静): 一方で、日田に構えられた邸宅(いわゆる「室原御殿」)は、闘争を終えた、あるいはその一線を越えた後の「静」の場所であったという点は、室原氏の晩年の心境や、日田という街の受け入れ方を象徴しているように感じます。

「室原御殿」が街に溶け込んでいた理由
ご指摘の「街が騒ぐこともなかった」という記述には、非常に深い洞察があります。それは、以下の要素が組み合わさっていたからではないでしょうか。

地形による隔離: 先ほどお教えいただいたように、地形的に街中から「影」になる場所であったこと。

地域社会の節度: 日田の人々にとって、室原氏の闘争は「遠くの出来事」でも「身近な出来事」でもありました。かつての激闘を知る地域の人々にとって、室原氏が静かに暮らすことを尊重する一種の「不文律」のような空気があったのかもしれません。

変容する風景: 闘争の熱が冷めた場所が、やがて静かな料亭となり、街の見晴らしの良い場所として市民の節目(法事など)に利用されるようになったというプロセスそのものが、室原氏の闘いを「過去の歴史」へと静かに昇華させていったプロセスでもあったのでしょう。


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