post158:グループメディアとその作法

グループメディアとその作法

 

 そして、最後の仕上げとしてコアラを取り巻く関係機関と協議しているが、公共ホストを運営する新しく強い運営体を目指して何らかの組織改革を来年三月までに行うこと。その第一歩として、一年ほど前に、皆の会費から工面して専属の事務局員を置いたこと。それがよいほうに回って、実は第三世代とも呼ぶべきユーザーが育ち、彼らがこの会場をかっ歩していること。昨日から今日にかけての彼らの自信あふれるはつらつとした動きを見ていると、社会インフラネットはきっとできるし、地域社会に絶対にあってほしいし、必要なのだ、効果抜群のものなのだ、有益なものなのだ、とますます思うようになったことを述べた。

  そして、社会インフラネットは官の運営ではうまく機能し難いが、地域社会に必要とされるもの、つまり民間と力を合わせて維持されることを期待される準公共財であるようだ。さらに、電子ネットワークは互いの知恵や体験を共有するものである、というならば、互いに知恵や体験をボランティア的に出し合う行動があってこそ存在し得るはずだ。コンピュータネットワークであろうとヒューマンネットワークであろうと、その維持は互いのボランティア行動が前提になる。そのボランティア行動が「あきたからやめた」「つらいからやめた」では済まされず、定常的に維持されることが社会インフラとして機能することになるはずで、準公共財はそういったフィランソロピー(公益的)活動で維持されるものであること。したがって、継続的ボランティア活動やフィランソロピー活動が社会的に評価され尊敬される社会になった時にこそ情報社会が身近になり、制度的にそういった組織が確立されてこそ情報社会が実現される時ではないか、と話した。 私の分科会にきていたコアラのNEOグループは、目を輝かせて聞いていてくれた。新組織づくりがいよいよ最後の詰めとして残されている。

 分科会が終わってNHK会長室の金沢寛太郎さんが、運営で悩んだ頃のことを指して、

 「尾野さん、顔が見えなくなった時からそれはグループ・コミュニケーションではなくマスメディアになるんだよ、そして、その発言内容にはマスメディアとしての公正さや正確さがなんらかの形で要求されるんだね」

 というコメントを寄せてくれた。

 マスメディアのテレビや雑誌をあれほど発信者側で使っていた私ではあるが、なるほど気がつかなかった。私の周りのマスメディアの人達はいつも取材に真剣であったし、時間と人をたっぷりかけていた。場合によっては時間とカネが無駄じゃないか、とさえ感じたこともたびたびだったが、そうではなかったのだ。新しいメディアであるグループメディアにはこの作法、ルールが必要で、井戸端会議や飲みニケーションのノリで話してはいけないことがあるという規範が、コアラ内に十分に確立されていなかったことに気がついた。メディアとして使い込みの経験不足だったのだ。

 他人を評価、とくに批評する発言には、ジャーナリストと同じ厳正な調査、公平な話し方を当然とするネットワークマナーや教育、それも誰もがグループメディアに触れる時代になることを見越した小さい時からの学校教育が必要になってきた、と思った。

 そう、少し時間がたつが、翌九三年の春、コアラ内でセクシュアルハラスメント騒ぎが起こった。執拗に女性にメールを出したり、チャットを求めたり、それを拒むと当てこすりの発言を繰り返したりで、何人かの女性が退会または通信から遠ざかっていった。

 その当てこすり的な発言は相手の顔が思い浮かべにくいからこその発言であろうが、それこそ事実がはっきりしない片側だけからのものであるし、一方通行の非難や批評にほかならない。強くなったコアラメンバーは許さなかったし、その男性は退会していった。

 経験がメンバーを強くし始めているように感じた。

 


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