post147:コアラ事務局への不信
コアラ事務局への不信
九〇年~九一年三月はバブルそのもので、たいへんな人出不足であった。会社は大分県最大の建物である新県立病院新築工事と、四月オープン予定のテーマパーク、ハーモニランドの電気工事が最盛期でてんてこまい。皆、目を三角にして頑張っている。そういった中での東京行きは後ろ髪を引かれる思いであったが、「研究所をつくる」ここ一番の時期で、頑張り抜きたかった。 しかし、東京行きが重なれば大分での仕事がだんだんと留守になってくる。会社の仕事もだろうが、コアラ事務局としての仕事も留守がちになってくる。コアラ事務局の仕事は九〇年三月の日出会議の準備の頃からとても厳しくなってきていた。突貫作業で準備を進めざるを得なかったし、会員数も発行ID番号が千五百番近くになっていて、ちょっとした会員サービスが馬鹿にならないほど作業量を増やしていく。 当初の頃、アルバムを制作し封筒詰めを行い宛名書きをする作業は、月一度の楽しいオフラインであったはずなのに、ここまでくるとそうはいかない。作業がうっとおしくなるのは避けられない。それに当初のオフライン隊メンバーは会社で責任も出てきて、そう簡単に仕事を休めることもなく、バブル時期の人出不足は休日出勤も余儀なくさせている。かといって、コアラ専属の事務局員を雇えるような体力はコアラにはない。で、思いあぐねて会社の社員の垣迫恵美子さんにコアラの仕事を手伝ってもらい始めた。彼女は我慢強く、根気よく仕事をしてくれた。二日、三日かかろうがアルバム発送作業を一人でやってくれた。一人作業なので暗くなりはしないか心配したが、めげずにマイペースで取り組む姿がうれしかった。 オフライン隊のメンバーは、彼女にやさしく取り組んでくれるものの、千五百人のメンバーがいると彼女は到底すべての会員を憶えることが出来ない。私も当然で、それ以前の入会者はほとんど入会時に会っていたり、電話でひと言話していたりで、それなりにコアラ事務局は信頼をもらっていたし、いざというときには事務局へ電話をかけてよい、という安心感を持たせるようにしていた。加えて、「コアラは実名ネットワークです」ということを電話などを通じたオフラインで入会時に間接的に念を押していた。が、その頃の規模になるとこちらが相手のことがわからなくなってくる。個別の顔が思い浮かばない事務局にならざるを得ない。こちらがそうであるならば先方もそうであって、今まではメンバー自身の努力で片付けていたような事項を遠慮なく事務局に問い合わせてくるメンバーが出始める。
「先日コアラのことが掲載された新聞記事のコピーを送って欲しい」などと一つ一つはたいした作業量ではないのだけれど、積もり積もれば朝から晩までやっても終わらない。いつのまにやら垣迫さんは、コアラ専属社員になってしまった。これには人手不足でふうふういっている会社がもう一つ、ふぅ、と、溜息をつく。とにもかくにも、私と彼女の二人がコアラ、コアラ、と追い回されていく。 忙しいのは私の会社だけではない。県庁だって忙しく、情報化推進室は毎週のように行われるハイパーネットワーク社会研究所調査委員会の各部会への出席対応がそう簡単にはできない。東京側事務所の会津さんも忙しいので、すべてに出席ができない。つまりは各部会間の内容的連携が深まりにくいように思えるし、大分側の熱心さが東京の委員の方々にどのように伝わるか?勝手ながらとても心配してしまった。そこで、これこそここ一番という気持ちで、会社の溜息をついて、毎週のように上京し部会に出席した。私が出ることでどのくらい役にたつのだろうか、と疑心暗鬼ながらも。そして、その東京行きは会社やコアラ事務局の事務が手薄になるということで大分に帰ればそれなりのつらさがある。 そういった状態が顔にも口にもにじみ出るもので、何とはなしにいつものメンバーが寄りがたい雰囲気になっていたようだった。 そこに追い打ちをかけたのがオランダ人留学生の問題。 栗村さんの紹介で知り合ったオランダ在住のジャーナリスト川端きみこさんは、大分をさまざまな形でPRしてくれて、一度日本に里帰りした時、長崎のオランダ村に行くよりも、オランダ人三浦按針(ウイリアム・アダムス)が漂着した大分県臼杵市を訪ねたいと大分までわざわざ遊びにきたり 、また、一村一品運動をよく理解してくれて、九〇年六月にはオランダに「KAZAGURUMA」という店を開店し、一村一品の展示販売を行ってくれた。これこそ、世界で最初に一村一品が欧米で常設販売されるようになったわけで、とてもうれしかったし、そこからのマーケッティング情報も大分にとってはありがたかったに違いない。 そういった大分との関わり合いを持つ彼女からオランダ人留学生を大分で受け入れてくれないか?と相談があった。これは私ひとりでは対応できないので、商工会議所青年部に相談した。青年部はどうなることかと心配しながらも引き受けてくれた。
そして、九一年二月、彼らがやってきた。 途端にややこしくなってしまった。 日本語がほとんど話せない。「約束が違う」と青年部は感じた。で、英語が流暢な青年部部員兼コアラ会員の原口君がどうしても両者から頼りにされてしまう。面倒見の良い彼は、雑事を一手に引き受けてしまった。はじめての日本で、食事も合わず、また日本の予想外に寒い気候に風邪を引く者も現れる。助けを求めて、夜昼関係なく原口君のところに電話がいったようだった。彼は困り果てながらも、ねばり強く面倒を見る。するとますます頼りにされる・・・。という悪循環で、ついに彼はSOS。青年部にも、私にもその困惑と怒りをぶつけてきた。青年部も私も、打開策を求めてオランダの川端さんに連絡するが、どういうわけか連絡が取れない。何度もFAXまで入れるが、それにも返事がない。まいった。全員がどうしてよいか、わからない。原口君には、コアラが取り次いだのだから事務局長が責任を取ってほしい、強く言われてしまい、二の句が継げなかった。 この混乱が週一回の東京行きの忙しさと重なり、コアラ事務局の不信へとつながった。「事務局は何しているんだ」ということだろう。 一度不信が生まれれば、その不信が増幅されるのが電子会議の恐さである。人数が多くなったことから実名であっても匿名と同じようにしか機能せず、互いに顔を思い浮かべられない者同士ということで、電子会議で一人が不信を表明すれば、それがあたかも事実のように受けとめられてその上に他の不信が組み立てられていくし、その不信を表明する語気が強まってくるのも当然のこと。どこから出たのか、私があれだけ東京に行けるのもコアラの会費を自由に握っているからだろう、千五百人も会員がいれば一人月千円の会費で毎月百五十万円もあるじゃないか、と思う者まで出てきてしまった。 これには驚いてしまい「これは困った、早急にわかってもらうべく決算報告を行おう」と心するが、肝心の垣迫さんが結婚退社。残された私は、東京行き、その東京の調査委員会のための資料づくり、コアラ一般事務、見学・問い合わせ処理、決算、選挙応援、そして会社の仕事と、もういくらやっても終わらない。電子会議で事務局を非難する質問や発言に応える時間が足らない。多勢に無勢。質問は多角度から多人数でくるが、それに応えるのは私一人。質問は数行書けば済むが、それに応えるにはしっかり調べたり、ワープロで文章を書いたりと時間がますますかかってくる。毎日夜遅くまで、かつ、土曜も日曜もなく取り組むが、全員の質問にはとても応えられない。で、思い余って電話で応えようと連絡を試みるが、「電話で質問を封じようとした」と勘ぐられる始末。うーん。困った。手が出ない。ダルマだ。また、事務局の作業内容を説明して手が回らないことを説明しようとするが、ボランティア組織の事務局運営に自ら手を出したことのない人にはチンプンカンプンらしく、「やればできることをなぜしない」「なぜ応えない」との理論だけの執拗なメールが来る。手は出さず評論ばかり。 うー、と唸る毎日、苦悩の毎日。
それを顔に出さず東京に行き「大分にハイパーネットワーク社会研究所を」とニコニコといって回る毎日。 それを伝え聞いて「なぜ東京に行くのか、それよりも優先することがあるのではないか」とまで介入しようとする人もいる。ハイパー研究所はコアラとは関係ないじゃないか、などという人まで出てくる。東京行きの費用は昔からコアラとは関係なく会社や個人のカネで行ってること、それは大分県全体の情報化事業のバランスや頭脳立県を目指す立場からの行動なのだと説明しても理解してもらえない。ましてや、コアラ事務局が収入の少なさから、私の会社の女子社員をボランティアとして使ったことが理解されず、コアラから収益を上げようとしてやっている、と勘ぐられる始末。
つまりはコアラの会計報告をしていなかったことがいけなかった。そもそも顔見知りのなかよしグループで始まって、会則もしごく簡単にして総会を開かねばならないような規則はないし、役員の改選や任期などもない非常にゆるやかな、つかみどころのない団体であったのだが、不信を持つとすべてが悪い方向に回転する。西瀬戸経済圏の各県庁からは毎年の会費請求時に前年度決算報告を求められる程度で、他からは何もなかったことに甘えていた私がうかつだった。顔が見えなくなったとたんに会計報告が必要になる、ということは「親しき中にも礼儀あり」で、毎年アルバムで簡易報告でもやっておけばよかった、と思ったがあとの祭り。さらに今年度のものは垣迫さんの退社もあって、私にまとめ上げる時間がない。言い訳すればするほどおかしくなるに決まっている。うーん、うーん、と唸るような毎日。
砂上に楼閣をつくっているような感覚だった。

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