post144:「ハイパーネットワーク社会研究所」調査委員スタート

「ハイパーネットワーク社会研究所」調査委員スタート

 

 さて、五月の連休明け。そのアメリカ行きの直前に知事からダイレクトに電話がかかってきた。

 「例の研究所の話だが、アレが本当になるかどうか、大至急検討してくれないか?」

 「はい」

 「何を研究するか?研究スタッフはどのくらいいるか?施設はどのくらいの規模が望ましいのか?情報化推進室の武田二郎室長とよく相談して大至急二、三日でまとめてみてくれないか」

 「はい」

 「で、公文先生は大丈夫だろうね」

 「はい、意気盛んです。」

 「しかし、この行動はまだ誰にも秘密で動くんだぞ」

 「え?でも、すでにこの前の日出会議の時にそういった話をされたから秘密じゃぁないんじゃないですか」

 「いや、そうじゃない。あの講演の時はそれなりの考えがあってそういいながら様子を見ているんだよ。いわばアドバルーンを上げて反応をみているようなもんだ」

 「ああ、なるほどわかりました。さっそく調べます」

 そういった指示の受け、大至急検討した。結果として、リゾートオフィスタイプで、マルチメディア会議室や宿泊施設を持つ三階建て程度の小規模な研究所のイメージが出てきた。費用も含めて知事に報告。

 「よし、わかった。これでよい。今度はこういったことがどう実現されるか、公文先生とよく詰めてきてほしい。そして、通産省と郵政省にお願いして、研究所ができるかどうかの調査委員会を開くように考えよう」

 という。

 私はアメリカ滞在中の週末、公文先生、会津さん、藤野君とで具体的な調査委員会の構成、方向性について大まかながら話し合ってもらった。

 その時期、世の中はたいへんなバブルで、人出不足時期。私も本業の人出不足が深刻化しつつあったが、少しの時間を見つけて県外出張(といってもほとんど情報化のためであったが)の帰りには、例えば横須賀のNTTヒューマンインターフェース研究所など、関係のありそうな施設を見学して回った。

 一方、東京側では会津さんが、研究所ができるまで待てないとばかり、企業に呼びかけて定期的に「ハイパーネットワーク研究会」なる勉強会をスタートさせ、意欲満々である。

 そして、公文先生は九月には住まいを日本に移すことになっていて、その時点より調査委員会がスタートできるよう、県外者へのアプローチは会津さん一本に絞り、彼経由で準備を進めてもらうこととなった。

 第一回の調査委員会は、九〇年九月二十八日、東京の日本都市センターで行われた。委員長はコアラ見学にきてくれた渡辺文夫電子ネットワーク懇談会会長にお願いし、公文先生が副委員長。そして、この委員会の下部組織として、社会システム、技術、研究体制調査の三つの部会を設置した。

 それぞれの部外は出入り自由にしていたが、三つの部会に親委員会があって合計四つもあると、これはもう事務局は忙しい。会津さんのネットワーキングデザイン研究所だけでは追いつかず、日本システム開発研究所に事務を総合委託した。東京はそれでよいが、大分側がたいへん。親委員会は十二月に一回だけ大分で開催されたが、他はすべて東京開催で、大分県庁情報化推進室が何らかの形で立ち会うのがベターであるがとても追いつかない。大分県東京事務所の応援をもらっても、勢い大分の熱意が出席の人達に伝えにくくなってしまう。そこで、やむを得ず、私はなるべく多く出席するように心がけた。

 とにかく、毎回がはじめてのハイパーネットワーク論となるので、興奮もしたが、本質的に研究に値する内容を出すべく緊張もした。

 公文先生は、人間関係や企業間、国家間の関係などを意味するネットワークと、電子ネットワークによって新しくでき上がる関係を歴史的視点、文明論的視点を通して論じ、理想を求めつつ、二十一世紀のあるべき社会システム全体として「ハイパーネットワーク」と総称し、その構図づくりに取り組んでいるようだった。

 月尾先生は、ちょうど日本経新聞経済教室に書いた日本の今後の研究のあり方に関する考えを、この研究所にも適用し、「COS/センター・オブ・シンパシー(Center of Sympathy)」ということを提唱していた。これは、今こそ日本は超一流の研究者による最先端の研究所(COE/センター・オブ・エクセレンス)をつくる必要があるが、それだけでなく今後の研究は一つ一つが社会に与える影響が大きいので、常に市民や社会、そして国際的にも研究に対する共感・協力を得られるような研究体制づくりが重要である、ということであった。

 おりしも世はリゾートブームで、月尾先生は建築が専門であることから電通総研でテーマパークの研究会を実施してたこともあって、その会で私に大分のテーマパーク・ハーモニランドやコアラ、一村一品の現状を説明させた。そこで、ハーモニランドをCOSの場として使うように提案。研究所をオープンなものとし、ハーモニランドを市民とのインタフェースの場、実験の場、教育の場と捉えようというものである。

 さらに、月尾先生の極めつけは、大分は東京と違って最先端の状況がすべて揃うというわけではないので、絶対的な景観、自然のよさで人が集まるという魅力をつくるように何度も何度も念を押していた。アメリカのカルフォルニアのラホーヤ岬は、太平洋に夕日が落ちるのを見ながら研究生活をするのが一つのステイタスになっているが、そういった場所づくりが必要だという。そこで私は、大分は太平洋から日が昇るのを別府湾沿いに眺められるのです、日出町って名前があるぐらいですよ、そういった場所だったらきっと気に入ってもらえます、そして別府は古くからのリゾート地ですし、きっとリサーチ&リゾート、いやリゾート&リサーチに最適ですよ、と一生懸命PRしたものだ。

 そして私自身は、なぜハイパーネットワークが大分にほしいかを、問われ続けたように思う。

 地方にいても、東京にいても、同じように生き生きとした地域社会であるには?時間や距離、社会制度、中央・地方の差、土地の価格差、貧富の差、キーボードリテラシー、ハイパーメディアリテラシー…。人々は自らを主人公とすることのできないさまざまな障壁を持っているが、それらの障壁を押し下げ、ちょっと便利で楽しい暮らし、自分の存在を肯定的に認め合える地域社会。それを実現する一手段としてのハイパーネットワークがほしいわけであって、どうやったら実現できるかが、私にとっての最大関心事になる。

 その思いを紙に記すのはなかなか難しい。あれこれ考えて、以前、日出会議の時、議論のスタート台として書いた「未来のネットワーク社会へのルートはさまざまにある」を拡張して「ハイパーネットワーク・ルート・マップ」をこしらえた。

 一九九一年一月の時点で、コアラのマシンはCOARA-3である。それを一九九三年にCOARA-4に発展させ、三、四年おきにリプレースして、二〇〇五年にCOARA-7、その先の数年先にハイパーネットワークができるというルートマップで、左半分は社会と情報化の面からの考察、右半分は技術をユーザーサイドから眺めた事項を配置した。単なる概念図なのだが、月尾先生のCOSの概念をハーモニランドに絡ませて配置し、ハイパーネットワーク日出会議の役割も書き込んで、それなりにおもしろかった。部会や委員会の人達には喜んでもらえたようだった。

 こういったムードがコアラ内に伝染して、cafe会議室(「喫茶コアラ」がこの頃改装されて女性だけの議長になり、名前をcafeと横文字にしていた)では女性陣からの「ハイパーネットワークとは?」という質問に議論が沸いたりしていた。

 そして、九一年三月、最終委員会が行われ、研究所の創設が提言された。

 さらに、その研究所の設置場所として、瀬戸屋課長の指導をもらって次ぎのようにまとめられた。

 

 この研究所は、電子ネットワークを最大限に利用して研究を行うことになるため、立地地点に関する一時的な制約はない。ただし、次のような点は考慮要因となる。

 ・地方圏に立地することが望ましい

 この研究所は、将来のネットワーク社会を先取りしたものでなければならない。そのため、このような社会において、距離が制約要因とならないことを自ら示す必要がある。その意味では、既存の大都市圏などではなく、地方圏に立地することが望ましい。

 ・リサーチ&リゾート

 海外からの人の受け入れ、客員研究員との交流、国際セミナーの開催などを考えると、交通の便、とくに海外からのアクセスが便利であることが望ましい。また、近隣にゴルフ、テニス、水泳、クルージングなどができるリゾート地があることが望ましい。

 ・研究所と地域の企業、住民との交流が安易に行える場所

 ・地元地方公共団体支援は不可欠

 ・その地域をベースにして、新しいシステムの実験などができればベスト

 以上のような点から、大分県から提案のあった第二ソフトパーク地区を考えると、リゾート地としては別府、湯布院、久住高原などから三十分、ないし一時間という好地点にあり、また大分市中心部から二十分程度であり、周囲にはソフトウェア関係の企業立地が予定されているなど、地域との交流という観点からも問題はない。また、コアラや翌年度に開園が予定されているハーモニーランドは、将来の実験フィールドとしての可能性を有するものと思われる。



コメント

コメントはまだありません。

私はモデレーター♫、人生相談含めてなんでもどうぞ。