post130:ダイレクト・デモクラシー
ダイレクト・デモクラシー
それは〟ダイレクト・デモクラシー〟ということだろう。
八八年から八九年にかけて起こった、大分の高校入試の合同選抜制度の改善のいきさつに深い驚きを覚えたのは、私だけではないだろう。
ことはコアラ電子会議室「県議会サロン(会議愛称/SALON)」が発端であった。
この会議の議長である、コアラの後藤カイチョーは、コアラメンバーに対して知事や県庁各部署への質問をこの会議室で受け付けてくれていて、一度は皆の意見を県議会での会長が行う質問内容に組み込んでくれたりしていた。これだけでも電子デモクラシーは十分感じるのだが、八八年四月頃から大分で問題になっている高校入試の矛盾を考えるべく、二人の県議がテーマを電子会議で取り上げた。
当然、入試制度に矛盾を感じている人達が議論に飛びついてきて、さまざまなことが起こったのだが、その状況を、尾野桂子が雑誌『SAPIO』の八九年九月号で以下のように紹介している。
「大分県の教育はこのままでいいのか」と昨年の四月、この会議場でネットワーカに投げかけた。
かつて大分県は、教育県として全国的に有名で、春の大学合格者の数はなかなかのものであった。ところが最近は、鳴かず飛ばずどころか、燦々たるもの。これも高校入試の「合同選抜制」が大きく影響しているという意見がある。
一方で自宅前の高校を素通りして、遠くの高校に通学するのはおかしい、といろいろと不満や疑問が絶えなかった。裁判所にもこの問題が持ち込まれたりして、まさに泥沼化してしまった。
まさに「待ってました」とばかりにサロンは一気に盛り上がったいろいろな立場から、多くの意見が寄せられ、大分県外の実状など改めて知らされた。そんなこんなであるが、COARAメンバーでもあり、青年会議所のメンバーであるメンメンが、このサロンの議論をきっかけに、「合同選抜」を考えるシンポジウムを主催し、後藤氏もパネラーとして出席。その時に感想として、
「まず、この〝SALON〟で教育論議が続けられているうちに、具体的な数字のデータばかりでなく、考え方、受け取り方、受け取られ方等が蓄積されています。単なるデータベースと違って、コミュニケーション・ベースである強みでしょう」と後藤氏は〝サロン〟に書いている。
そして、議会でもこの〝サロン〟でのやりとりを大いに参考にして発言。来春から、この入試制度に見直しがはかられることになった。(『SAPIO』の八九年九月号より一部抜すい)
とレポートしているが、コアラメンバーから見た事実はもっとダイナミックであって、青年会議所の高校入試改善のシンポジウムのパネラーには(青年会議所メンバーにも)電子会議のコピーを渡したし、コアラメンバーで高校入試には当面直接的には関係ない人達も強く感心を持ってシンポジウムに出席。その模様も〝SALON〟にレポートされ、より深い考察が可能になったようだった。
新聞やテレビで当日の模様はニュースとしてかなり大きく報道されたが、その時に出席していた地元の雑誌社二社がこれを契機に、〝合同選抜を考える〟誌上討論を数カ月間に亘り連載。いやがおうでも考え直す気運が高まっていった。
県議会でも、後藤会長以外のコアラとは縁の無い議員からも次々に同様の発言が出されるようになり、ついには、教育委員会も制度見直しを約束、新制度のありようの検討が開始された。八九年三月に、正式に制度変更が行われて、新合同選抜制度の採用が決定された。
この動きはとても深い感動を私に与えた。
通常のテレビや新聞だけの報道であったなら、高校入試に関係ある子どもを持っていない人達にとっては、「そうか、いま大分ではそのことが問題になっているのか」という現状認識だけで終わったかも知れない。
しかし、コアラメンバーは、情報を受け取ったあとがおもしろい。
自らの感想や意見と交じえるうちに、当事者でないにもかかわらず、より身近な問題として受け取り、かつ考え始め、資料なども集めてくる。
県外の人がなぜ?自分の子供さんがすでに成人している人もなぜ?未婚の人もなぜ?と思ってしまう。それだけでなく、彼らは先に述べたようにシンポジウムにも出席する。多分、コミュニケーションが、そのコミュニティを〝自分達のコミュニティ〟であることを強く感じさせるからなのではないだろうか。
そして、彼らコアラメンバー達は、高校入試制度が改善されることを感じ始めると、会議が始まった時と同じように静かにこの問題から離れて行った。コアラメンバーが決して合同選抜制度を変えたのではない。
市民一人一人が合同選抜制度の見直しを真剣に考え、その必要を論じたのであり、その結果として制度の変更が行なわれたのであって、〝市民の中にコアラメンバーが散在していた〟に過ぎない。
しかし、コアラメンバーは、市民が深く考えるアンカーとして機能した、と私は考えている。
シンポジウムや世論が上っ面に流れず、感情論にも流れず、よく練った議論になるための市民の中のアンカーの役割を果たしたということに、私は確信を持った。
その証拠に、シンポジウムそのものはとてもリベラルであったし、教育論にありがちの感情論に近い意見が会場から出されても、全体はそれなりに皆は落ち着いていた。なぜなら、事前に本当の問題点は何であるかをズーッと電子会議で議論してしまってきたのだから。
たとえ、市民全員が電子会議に参加していなくても、〝市民生活の中に電子会議を持っている市民〟の強みを感じる。
例の「地域テレビ開局30周年記念シンポジウム」の時もそうであったではないか。
「望ましい地域放送局とは?」といった命題でシンポジウムの二週間前から行われたコアラの電子会議は、身びいきでなく冷静に考えても、実際のパネル討議より電子会議の中身の方が密度が濃かったし、それはやむを得ないことだと思う。
パネリストの人達は、当日の二時間しか、または事前打ち合せを含めても数時間しかそのことを議論しておらず、第三者との意見交換はなかったに等しい状態での登場、自分の考えが他人にどのように受けとめられるか、といったシュミレーションなしに会場に臨んでいるのだから。であれば、自ずと手探りの意見にならざるを得ず、コアラ電子会議で二週間かけた、しかも皆で練り上げた意見、抽出された論点には追いつけないのは当り前であろう。
東京からきてもらったパネラーの人達には、「大分はなかなかしっかりしているぞ」って思ってもらえたのではないかな?とメンバーは言い合ったものだが。
つまりは、電子会議を持っている視聴者は強いゾ!、うかつな意見にはだまされないゾ!ってことを示したことになりはしないか?
しかし、市民とネットワーカーの割合がどのくらいあったら、その市民が強くなるのだろうか?ネットワーカー一人に対して市民が何人以下になったら、社会が変わるのだろうか?〝ネットワーカー率〟がその市民のリベラル強度を計る物差しになったりするのだろうか。ネットワーカー率は市民生活にどのように影響を与えるのだろうか?
いずれは答えを出したい問題だが、話をもとにもどそう。
うまく議論された電子会議は、フォーマルセクターではないにも関わらず、社会の仕組みを変える役割を果たすということが、〝合同選抜制度〟を通して感じた事だ。
これは、増田米二先生が工業社会から情報社会へのターニングポイントとして示唆した事に他ならない状況のように思える。
今までは、工業社会の仕組み(法律や制度)つくったり変えたりしてきたのは企業や業界団体、官公庁や審議会といったフォーマルな部門が担当してきたが、「情報社会は、市民そのものがインフォーマルな(ボランティアなどの)団体として制度をつくり変更するだけの優位性を持つであろう」ことを示唆している。
(増田先生は、「その〝優位性〟が制度的に確立される」と言い切っているが、この時期のコアラの直面している問題の一つは、その手前の状態で「〝優位性〟が制度的に確立されるルートを探る」ことにあっただろう。)
その状況を増田先生は〝草の根民主主義〟と呼んでいたが、私にとってパソコン通信からくる感触は〝ダイレクト・デモクラシー〟の方がよりフィットしたイメージを感じる。さらに、通産省公式電子会議「日本の貢献フォーラム/TERRA」の経験は、我々のように地方に住み、過去には国の政策などを一方的に知らされる立場だけに等しかった(これが今の民主主義?)市民を、ダイレクトに政策立案者に結びつけることが可能であることを教えてくれた。これは禁断のリンゴをかじったイブ、いや、アダムかな?暴走の味を知った暴走族かな?
今後は、こういったフォーマルグループとインフォーマルグループの連携が可能であり、パソコン通信はそれを保証しているように思える。それは、我々市民を勇気づけてくれるし、一人ぼっちでないことを教えてくれている。ダイレクトに政治につながっている感覚を与えてくれている。
ダイレクトに政治につながるということは、一人一人が持っている小さな意見や小さな感想を、「黒と白のどちらを選ぶか?」「三人の候補者の中から誰を選ぶか?」といったデジタルな方法ではなく、「私が海外旅行に行ったとき、、、、、」「あのアメリカ映画から感じたことは、、、、、」といったアナログの投票を行なっていることになるだろう。
それは、コアラの運営(電子会議場の政治?)にも似ていて、コアラの中は全体として参加者の切れ目の無い長期に亘るアナログ感情投票が行なわれており、その政策方向が皆の投票と狂っていると住人がいなくなってしまうという、恐ろしくダイレクトな民主主義のようだ。(しかし、コアラの中では皆が投票すると同時に、投票にかける議題をも併せて掲示しているという、ややこしい関係ではあるが)。
また、電子会議内で信任を得るためには他人の意見を認める、他人の存在を認めるという〝双方向の行儀作法〟が最低ルールであるわけだから、それこそ民主主義の原点にほかならないだろう。
こういった〝電子会議による実社会へのデモクラシー連携〟と、〝電子会議内のデモクラシー〟の両方を感じてしまうことで、〝ダイレクト・デモクラシー〟という言葉のほうをよりフィットする言葉として感じてしまうのは私だけだろうか?
しかも、ダイレクトデモクラシーを行なうための判断基準、価値基準を電子会議で自らの力でつくり上げて行く共同思考コミュニティ。
今日の体験・経験を精神的ホームである電子会議の中に持ち帰ることで、明日の行動指針を立てる価値判断共有創造コミュニティ。
一人ひとりが電子会議で得た価値基準を社会行動に反映させて行くコ
ミュニティ。
多分、これが〝情報社会〟のおもしろさなのだろう。

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